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日本にも旧石器時代はあった
大陸とつながっていた日本には、
ナウマンゾウやオオツノジカが闊歩(かっぽ)していた。
氷河期には海水面が低く、日本と大陸がつながっていて、マンモス、オオツノジカ、ナウマンゾウが日本にやってきていた。
3万年前には日本列島に新人がやってきており、打製石器を使う旧石器時代があった(土器はつかわれず)。
1946年に相沢忠宏氏が見つけた岩宿遺跡(群馬県)で3万年前の地層から黒曜石の打製石器が見つかり、日本にも旧石器時代があったことが証明された。
岩宿遺跡(群馬)
photo: Qurren (talk)Taken with Canon IXY 430F (Digital IXUS 245 HS) / CC BY-SA (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)
そして独特の文様(もんよう)の入った土器が使われるようになった。
縄文時代
大森貝塚を発見したモースが、出土した土器をCord Marked(縄の模様がついた)土器と表現したことから縄文土器と呼ばれ、その時代が縄文時代と名付けられた。
人々は土地を掘り下げて柱を立てた竪穴式住居(たてあなしき)に住んだ。
呪術や祈祷などに使われた土偶が見つかっている。
本格的な農耕は始まっておらず、狩猟や漁労、採集をおもにしていた。土器で木の実などを煮炊きしていた。打製石器と磨製石器も使われた。
三内丸山遺跡(青森県青森市)、亀ヶ岡遺跡(青森県つがる市)、大森貝塚(東京都)などの遺跡が有名。
土偶(亀ヶ岡遺跡)
public domain
やがて本格的な稲作が始まる。
人々は定住し、集落ができた。
紀元前10世紀~紀元「後」3世紀ごろの時代。
稲作が大陸から伝わり、主要な農業として広まった(北海道と沖縄は除く)。水田の遺跡が残っている。
縄文土器よりも高温で焼く技術が伝わり、より薄くて硬く、褐色の弥生土器をつかった。東京都文京区弥生町で最初に発見されたことから名づけられた。
青銅器や鉄器も伝わり、徐々に使われるようになる。
稲を刈るための石包丁や、米を保管しておくための高床式倉庫が見つかっている。高床式倉庫にはネズミが上って入れないようにねずみ返しがついている。
まわりが堀で囲まれた環濠集落の遺跡が見つかっている。
吉野ケ里遺跡(佐賀県)、登呂遺跡(静岡)、唐古・鍵遺跡(奈良)
よくでてくる旧石器、縄文、弥生時代の遺跡
集落は国になり、中国に貢いで権威を得た。
争いを収め、連合国が成立するようになる。
どこにあったのか幻の国、邪馬台国。
その国は女性が王となった。
中国の歴史書「魏志」の中の「倭人伝」には2~3世紀頃に小国が争っていたが卑弥呼という女王の邪馬台国という国の下で連合して争いが収まったことや、
239年に卑弥呼は魏に使者を送り「親魏倭王」の称号や、金印(未発見)、銅鏡100枚などを得たことが記されている。
日本では小国がいくつもできていたことが記されている。
邪馬台国の場所は不明で、畿内説と九州説が有力。
卑弥呼の死後、男王が立つが混乱を抑えられず、13歳の女王の壹與(とよ・いよ)に代わると収まった。
3世紀半ばの壹與の朝貢以降、5世紀に倭の五王の初代「讃」の朝貢の記録があるまで150年間、中国の記録から日本の記録がないため、4世紀は空白の世紀と呼ばれた。
権威のあるものは巨大な墓を作った。
3世紀半ば、王や豪族(各地の首長)の墓として、土を丘のように盛り上げて作った古墳が作られた。
特に前方後円墳が代表的。中でも最大の「大仙陵古墳」(仁徳天皇陵)は周辺の古墳群とともに2019年7月に「百舌鳥・古市古墳群」として世界遺産に登録された。ちなみに最古の前方後円墳は奈良の箸墓古墳。
古墳の中には棺(ひつぎ)が収められている石室(石室)という部屋がある。また、副葬品として、土器である埴輪(はにわ)や鉄製の武具や馬具が置かれた。
大和地方に巨大な連合ができあがった。
それは中央集権化していく。
古墳は河内平野(大阪)や奈良盆地に多く、有力な豪族が多数いたと思われる。大和地方を中心に豪族は連合して「ヤマト王権」になっていった。その王を「大王」(おおきみ)と呼んだ。
埼玉県の稲荷山古墳からは獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)と記された鉄剣が見つかっており、ワカタケルつまり雄略天皇(倭の五王の「武」)に仕えた豪族が広い地域にいたことがわかる。
氏(うじ:血縁の集団)と姓(かばね:政治的地位や称号)という特権的地位制度を設けて、連合国は中央集権化していき、のちに朝廷と呼ばれる組織になっていく。※いつから朝廷と呼ぶかは議論あり。
日本は朝鮮の国々や中国大陸の国ともかかわっていく。
そして日本に多くの技術や思想が入ってくる。
4世紀ごろ、朝鮮半島には、高句麗(こうくり)、百済(くだら)、新羅(しらぎ)、加羅(から。伽耶(かや)・任那(みまな))地方で別れていた。
朝鮮半島の広開土王(好太王)の碑文には倭が高句麗と戦争をして敗れたことが記されている。
また、中国大陸や朝鮮半島から日本に来た人を「渡来人」と呼ぶ。渡来人によって漢字や儒教(孔子の思想で、仁、義、礼、智、信で、を重視する)、のちの時代には仏教などが伝えられた。弥生土器よりもより硬い「須恵器」を作る技術(のぼり窯を使った高温の焼き)が伝えられた。
他にも南北朝時代の中国(南朝の宋)に倭の五王(讃・珍・済・興・武)のひとり武(ワカタケルとも呼ばれる雄略天皇と考えられる)が高句麗との戦争に力をかしていただきたいと願い出る手紙を送っている(「宋書」倭国伝より)。倭は中国(宋)の臣下として仕えていた(朝貢)。
渡来人の影響は日本を揺るがす。
続く舞台は奈良、飛鳥(あすか)。
仏教の政治が始まる。
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